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筑波大学附属駒場・麻布・灘・東京学芸大付属はなぜ、「学び舎」社会を選定したか

2016年3月19日の産経新聞報道で、中学校の教科書採択が取り上げられた。

記事の趣旨は、近代史において問題のある記述がある教科書が、灘中学、麻布中学、筑波大学附属駒場中学、東京学芸大学附属(の中でいくつかの)中学など進学校が、思想的に問題のある教科書を選んだうえに、その選定理由について説明を外部へしていないのは問題がある、というものだ。

だが、この件は思想性とか何とかへの勘ぐりよりも合理的な説明も可能な問題に思える。

というのは、まず①(もっとも灘は社会を課していないが)中学受験社会の範囲は実質的に極めて中学教科書の内容に近く、とくに学力上位・進学実績上位校に行くほどその傾向が強まる。さらに②学芸大付属の一部を除けば、これらの中高一貫校は6年後の大学入試を見据えた授業をすればいいので普通の中学歴史教科書はやらせる意味がうすい。

なぜ①のような現象が起きているかというと、いちおうの合理性を持った仮説は提唱出来る。それは「各中学の教員は、6年後の出口となる大学入試において最も成果を上げそうな受験生をセレクトするというインセンティブを持っており、それにしたがえば中学社会の一般的な内容を既にわかっている小学生をリクルートするのが合理的だから」である。

愚考と比べるのはおこがましいが、政治学の加藤淳子教授が「陣笠議員(新人国会議員)がとる政治行動のインセンティブが、次回選挙での当選である」と措定して書いた論文と発想は同じ(というか借りている状態)である。

となると、政治史や経済史の分野(既存の中学歴史教科書がカバーしてるところ)は、じつは中学受験ででるから、これらの高学力な層の集まる学校ではやらせても意味がないということになる。

ただし、学び舎の教科書サンプルページ(自分はまだ現物全体を見ていないので即断出来ないが)を見る限り、例えば江戸時代の「寄合」に項数を割いて、いたりであるとかして「政治史中心の、既存社会科教科書でも、中学受験歴史でも扱わず、なおかつ高校社会日本史でも手薄な部分」を補っているように思える。

となると見解の当否(例えば今回の学び舎教科書では、江戸時代には村の寄合へ女性が参加出来なかったと明言されている)はともかく、論点としては他の教科書をカバーしてくれる素材な訳である。とりわけ、中高一貫校(学芸大付属系は、高校進学までの保障が薄いが)で高校受験をべつにしないでよくて、なおかついきなり高校日本史の内容に突入してもよい層へ教える価値があるとすれば、既存他社の教科書ではなく、この学び舎版ということになる。

少なくとも、自分がこれら上位校の教員であればそういう目線で教科書を選ぶ
(もっとも、授業ではあまりこれらの学校では教科書を利用しないという体験談があるかもしれないが、それでも「持たせておく際に強いて言うならベストは何か」という目線でいけば、高校教科書と重複の少ないこの教科書となる)。

なお最後に、この教科書が厚く語っている「らしい」(現物を見ていないので断定は不可)生活史・文化史は、以上の進学校が合格者数を競う対象である東京大学日本史で問われる(というか愚見ではオーラルヒストリーなどの流れで、日本でもこの20年、あるいはもっと流行の研究対象である)ことがままあるにもかかわらず、教科書で対応しにくい分野であった。

個人的には、この生活史・文化史を丁寧にフォローするという学び舎の姿勢は、意図してか否かは不明なものの結果的に、「東大受験校」の教員受けが良くなるポイントだったのだと思っている。

人間行動にはおよそ、目的があってそのインセンティブは何かと考えた方が、今回の一部上位進学校の中学教科書採択については合理的に説明出来る(*要は、叩かれてでも進学実績を上げたかったということ。そうでないと麻布のように貪欲に、国語と社会で東大入試に似せた問題は出してこない。)。

なおこの点を考えると、麻布同様に東大現代文の解答用紙を模して東大入試適正のある受験生を選抜している、開成や神奈川の栄光辺りで、近い将来に中学教科書が学び舎になったりしても驚かない。
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